或许很多人都不知道,高楼林立的深圳居然还隐藏着一座帝王墓。你知道这座帝王墓的由来吗?请听小i为您讲述。
高層ビルが林立する深センに帝王の墓があることを知らない人は多いだろう。この帝王の墓の由来についてご存じだろうか。
宋少帝陵
宋少帝陵
这座帝王陵寝位于深圳市南山区招商街道赤湾村,埋葬的是南宋的末代皇帝——赵昺。赵昺为宋度宗的第三子,继位时年仅七岁。彼时正值宋元交战,南宋不敌元,仓皇落败,向南而逃。战乱中,赵昺的两位兄长不是被俘便是病亡,仓促之下,他不得不以幼龄登位,改年号为“祥兴”,任陆秀夫为左丞相。
この帝王陵は深セン市南山区招商街道赤湾村に位置し、南宋(1127年〜1279年)最後の皇帝である趙昺(ちょうへい)が埋葬されている。趙昺は宋度宗の三男で、即位した際はわずか7歳だった。当時の南宋は元と交戦しており、元に敵わず、あえなく敗れ、南へ敗走を余儀なくされた。戦乱中、趙昺の2人の兄が捕虜となったか若しくは病死してしまったことで、趙昺は幼くして即位を余儀なくされた。年号を「祥興」に改めると、陸秀夫を左丞相に任じた。
1279年2月,宋元两军在广东新会崖门海域(今江门市)展开会战,南宋军民无力抵挡元兵的攻势,就此败北。左丞相陆秀夫见败局已定,便带着少帝从容投海,慷慨殉国。至此,南宋彻底灭亡。
1279年2月、宋・元両軍は広東新会崖門海域(現在の江門市)で会戦を展開し、南宋の軍民は元軍の攻勢に抵抗できず、敗北した。左丞相の陸秀夫は敗色が定まったのを見ると、少帝を連れて従容として入水し、意気軒昂と国のために殉じた。これにより南宋は完全に滅亡した。
宋少帝陵附近的陆秀夫负帝殉海像
宋少帝陵近くの陸秀夫負帝殉海像
陆秀夫携帝投海溺亡后,坊间传闻有言,少帝的遗骸随海漂流至赤湾,一老僧见海边有遗骸漂浮,上有群鸟为其遮蔽,诧异之下,便将其捞起。尸身上岸后,老僧又细细端详,见其面色仍如生人,加之服饰非凡,便认出是少帝的遗骸,于是将其安葬在天后庙西边的小南山下。
陸秀夫が皇帝を連れて入水し溺死した後、このような噂が流れた。少帝の遺骨が海に沿って赤湾に漂着すると、海辺に遺骨が浮かび上がった。それを隠すかのように鳥の群れが遮っているのを見た老僧は、驚いてその遺骨を引き上げた。老僧はその死体をつぶさに観察し、その顔色がまだ生身の人のようで、服装も非凡であることから、少帝の遺骨であることを確認すると、それを天后廟の西にある小南山に埋葬した。
宋少帝陵建立后,百姓感念陆秀夫身负幼帝、从容投海的慷慨和悲壮,时常前往祭拜探望。这座陵墓是目前广东省内发现的唯一的帝王寝陵。1983年,宋少帝陵被列为深圳市市级文物保护单位。
宋少帝陵が立てられると、人々は陸秀夫が幼い皇帝を背負い、従容として入水した決然たる態度と悲壮さをしのび、時折参拝に訪れるようになった。この陵墓は現在広東省で発見された唯一の帝王陵である。1983年、宋少帝陵は深セン市の市級文化財保護単位に指定された。
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来源:深圳市档案馆、i深圳
提供元:深セン市档案館、i深セン
编译:深圳政府在线、GDToday、Shenzhen Daily
編集・翻訳:深セン市政府ポータルサイト、GDToday、Shenzhen Daily