说到“新安”,您是否会联想到深圳市宝安区新安街道?然而,小i今天要讲述的“新安”,可是“此新安非彼新安”。
「新安」といえば、深セン市宝安区新安街を思い出すのではないか?しかしながら、今日のテーマである「新安」は、いわば「この新安はその新安ではない」のである。
明朝时期,深圳地区曾隶属于广州府的新安县。新安县的历史与明清时期抗击倭患、保家卫国的战斗历程密不可分。
明代(1368~1644年)において、深セン地区は広州府の新安県に所属していた。新安県の歴史は明清時代の倭寇討伐、国家防衛の戦闘とは切っても切れない関係にある。
为抵御海盗、倭寇的侵扰,明洪武二十七年(1394年),朝廷建立了东莞守御千户所(今深圳市南山区南头古城)和大鹏守御千户所(今深圳市大鹏新区大鹏所城)。1572年,广东提刑按察司副使刘稳请求朝廷在原宝安地区设县。次年,朝廷批准设立新安县,治所设在南头旧城,直属广州府。
海盗や倭寇の侵略を防ぐため、明朝・洪武二十七年(1394年)、朝廷は東莞守御千戸所(現在の深セン市南山区南頭古城)並びに大鵬守御千戸所(現在の深セン市大鵬新区大鵬所城)を設置した。1572年、広東省提刑按察司副使であった劉穏は、元の宝安地区に県を設置するよう朝廷に要請した。翌年(1573年)、朝廷は新安県の設立を許可し、その政府機関を南頭旧城に設置し、広州府に直属させた。
1866年版中英双语新安县全图(现藏于深圳市档案馆)
1866年版中英2か国語の新安県全図(現在は深セン市档案館に所蔵している)
“新安”有“革故鼎新,去危为安”的意思。这是深圳地区自唐代中期撤销县一级行政建制后首次单独设县,成为其社会经济逐步发展的新开端。
「新安」には「故きを革め新しきを鼎し、危うきを去りて安きを為す(古きを取り除き新しきを打ち建て、危機を脱し安穏を生み出す)」という意味が込められている。これは深セン地区が唐代中期に県という一級行政が廃置されてから初めて県を単独で設置し、深センの社会・経済が徐々に発展していく新たなスタートの幕開けとなった。
为防范海上反清力量,康熙元年(1662年),清政府在东南沿海实行“迁海”政策,广东沿海官民一律内迁30-50里,后又下令再迁30里。
海上からの反清勢力を防ぐため、康熙元年(1662年)、清朝政府は東南沿海で「遷界令(沿岸から内地への移住命令)」政策を実施し、広東沿海の官民をすべて沿岸から内地へ30~50里(約15.9km~26.6㎞)移住させ、その後更に30里(約15.9㎞)移住するよう命じた。
受两次“迁海”影响,新安县全县大部分地区被划分到迁移范围内,以至于清政府最终不得不撤销新安县建制,将其剩余的少量土地、人民划入东莞县管辖。直到康熙七年(1668年),清政府决定部分地区复界,新安县才得以恢复建制。
二度の「遷界令」の影響を受け、新安県全県の大部分の地域は移住範囲に指定されたため、清朝政府は最終的に新安県を廃止せざるを得なくなり、残った僅かな土地、人口を東莞県の管轄下にした。康熙7年(1668年)になり、清朝政府が一部地域の境界を回復することを決定したことによって、新安県はようやく再び設立されることとなったのである。
时光荏苒,到了1912年,地方行政设省、县二级,新安县属广东省直辖。1914年1月,全国行政区域整编,新安县因与河南省新安县同名,复称宝安县,隶属不变。“新安县”一名也逐渐消失在深圳的历史长河中。
時は流れ、1912年に地方行政は省、県の二級行政を設置し、新安県は広東省の直轄となった。1914年1月、全国の行政区域が再編され、新安県は河南省新安県と同名であったため、再び宝安県に改称され、所属は変わらなかった。「新安県」という名称も徐々に深センの歴史の彼方に消えてしまったのである。
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来源:深圳市档案馆、i深圳
提供元:深セン市档案館、i深セン
编译:深圳政府在线、GDToday、Shenzhen Daily
編集・翻訳:深セン市政府ポータルサイト、GDToday、Shenzhen Daily