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南头古城与军事海防那些事儿

南頭古城と軍事海防について

発表時間 : 2022-12-27 07:40:00

唐代“贞观之治”后,随着国力逐渐昌盛,海上贸易日渐发达,广州因而成为了当时世界上最大的对外贸易港口。中唐之后,西北陆路丝绸之路的阻塞使得华南地区海上交通日益兴盛。但由于海路水浅,进出广州的大型商贸船只必须绕行大屿山,经由屯门岛、南头等地驶入珠江。因此,南头一带凭借着天然水路优势,成为了广州与海外往来的必经之地,发挥着粤海交通重要门户的作用,这一地理优势也为后来南头一带发展为海防军事要塞提供了有利条件。

唐代の「貞観の治」の後、国力が徐々に増大するに伴い、海上貿易は飛躍的に発展し、広州は当時世界最大の対外貿易港となった。中唐以降、北西陸路シルクロードの閉塞により華南地区の海上交通は急速に盛んになった。ところが、海路が浅いため、広州へ出入りする大型商業貿易船は大嶼山を迂回しなければならず、屯門島、南頭などを経由して珠江へ入港するしかなかった。そのため、南頭一帯は恵まれた水路の優位性によって、広州が海外と往来する欠かせない経由地となり、広東の海上交通において重要な門戸としての役割を果たすことになった。この地理的優位性も後に南頭一帯が海防軍事要衝へと発展するために有利な条件を提供した。


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今南头古城“南头古城垣”遗址

現在の南頭古城「南頭古城垣」遺跡


唐开元二十四年(公元736年)正月,朝廷在南头城东南的海边建立了一个独立于地方政府之外的军事驻防区“屯门镇”,直接由岭南节度使统领,以保障海上贸易及交通安全。据《新唐书·地理志》载:“广州东南海行,二百里至屯门山……至狮子国……至婆罗门西境……至大食国。”由此可见,屯门因其便利的交通条件发展为广州的外港,成为了唐末中外商舶汇集之地。

唐・開元24年(736年)正月、海上貿易と交通安全を保障するため、朝廷は南頭城南東の海辺に地方政府から独立した軍事駐防エリア「屯門鎮」を設立し、嶺南節度使によって直接管理された。『新唐書・地理志』で「広州南東から海を航行し、二百里で屯門山まで到着し……獅子国まで……インドの西部まで……大食国まで到着する」と掲載しているように、屯門はその便利な交通条件によって広州の外港に発展し、唐末における国内外の商舶の集積地となった。


设立于南头的屯门军镇枕山面海,历经朝代更迭,依然扼守着我国南海防线上的重要阵地。清嘉庆版《新安县志》记载,南头寨设立于明嘉靖初年,为“虎门之外卫,省会之屏藩”。作为新安海防要塞,南头寨下辖军事防地6处,战船数量自明万历十九年陆续增至112只,成为名副其实的“全广门户”。清朝时期,政府在原军镇基础上修建了南头炮台。鸦片战争前夕,该炮台在抗击英军入侵等诸多战役中发挥了重要作用。

南頭に設置された屯門軍鎮は山に依って海に面しており、幾度とない王朝交代経たが、依然として中国の南海防衛線上の重要な陣地を守っている。清・嘉慶版『新安県志』によると、南頭寨は明・嘉靖初年に設立され、「虎門の外衛、省都の屏藩」となった。新安の海防要衝として、南頭寨は軍事防衛地6ヶ所を管轄し、戦艦の数は明・万暦19年(1591年)から112隻にまで増加し、その名に恥じない「全広門戸(広東全体の門戸)」となった。清代、政府は元の軍鎮を基礎として南頭砲台を建設した。アヘン戦争前夜、同砲台はイギリス軍の侵入に対抗するなど多くの戦いで重要な役割を果たした。


南头古城见证了深圳这片土地上沧海桑田的变迁,以近1700年的记忆,留存着深圳城市历史发展的“根”。

南頭古城は深センという土地が滄海桑田のような変遷を記録し、1700年近くの記憶をもって、深センの歴史・発展の「根源」を遺している。


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来源:深圳市档案馆、i深圳

提供元:深セン市档案館、i深セン


编译:深圳政府在线、GDToday、Shenzhen Daily

編集・翻訳:深セン市政府ポータルサイト、GDToday、Shenzhen Daily