深圳故事 > 2022,12
“深圳”地名的由来

「深圳」という地名の由来

発表時間 : 2022-12-09 07:40:00

“圳”的繁体字为“甽”,指田间的水沟,“深圳”则因村庄周围水泽密布,田间有一条深水沟(即深圳河)而得名。

「圳(セン)」の繁体字は「甽」であり、田畑の溝を指す。「深セン」は村々の周りが川や湖沼に囲まれ、田畑に深い水溝(深セン河)があることから名付けられた。


1981年在考古普查中发现的咸头岭遗址,证明了早在六七千年前的新石器时代,原始人类就已踏足深圳这片土地。虽然那时还未出现“深圳”一名,但深圳地区已经有了人类活动的遗存。

1981年、考古調査で発見された咸頭嶺遺跡は、6000-7000年前の新石器時代に、原始人類が深セン地区に足を踏み入れていたことを証明した。その時はまだ「深セン」という名は現れていなかったものの、深セン地区にはすでに人類が生活していた遺構が存在する。


查阅文献,清康熙版《新安县志》中记载:“康熙七年,新安沿边奉设墩台二十一座……深圳墩台,一座……”,这是古籍中第一次出现“深圳”这一名称。

文献を紐解いていくと、清・康熙版『新安県志』には、「康熙七年(1668年)、新安に沿い墩台が二十一座設立された……深セン墩台、一座……」と記載されている。これが史書で初めて「深セン」という名称が使用された例である。


那么,“深圳”二字最早出现在哪一份档案中呢?

では、「深セン」という二文字はどの档案で最初に用いられたのか?


在中国第一历史档案馆保存的清代宫廷档案中,有一份清代咸丰年间的奏疏,其仿真件现藏于深圳市档案馆,我们可以从这份档案里找到答案。

中国第一歴史档案館に保管されている清代宮廷档案には、清代・咸豊年間(1851年~1861年)の上奏文があり、その複写は深セン市档案館に所蔵されている。この档案に上記の疑問の答えを見つけることができる。


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叶名琛题为广东督粮道王增谦等疏防新安县属深圳墟贡生刘达源药材店被劫事(局部)(原件藏于中国第一历史档案馆)

葉名琛題して広東督糧道王増謙等の疎防にして新安県に属す深圳墟の貢生劉達源の薬材店劫を被る事と為す(一部)(原本は中国第一歴史档案館に所蔵している)


这份长达400厘米的档案名为“叶名琛题为广东督粮道王增谦等疏防新安县属深圳墟贡生刘达源药材店被劫事”,记载了清咸丰六年(公元1856年)正月三十日,深圳墟一家药材杂货店被打劫的案件。这份奏疏事无巨细地记述了该案件发生的准确时间、地点、具体经过,以及地方“营员”对案发现场的勘验,对银物丢失情况和人员受伤情况的排查,并经过层层传递,由地方上奏至朝廷。

この長さ400センチの档案には「葉名琛題して広東督糧道王増謙等の疎防にして新安県に属す深圳墟の貢生劉達源の薬材店劫を被る事と為す(葉名琛は広東督糧道王増謙等が備えを怠ったことにより新安県に属す深圳墟の貢生・劉達源の薬材店が強盗に遭った事件と題した上奏を行う)」と書かれており、清・咸豊6年(1856年)正月30日に深セン墟にある薬材雑貨店が強盗に遭った事件を記載している。その上奏文では事件が発生した正確な時間、場所、具体的な経緯、および地方政府の「営員」による事件発見現場の検証、銀物の紛失状況と人員の負傷状況の調査を詳細に記載しており、そして幾重もの伝達を経て、地方から朝廷に上奏された。


值得注意的是,这份档案共提及了7次“深圳墟”。“墟”(集市)是由清政府设立的一个个墩台发展而来的,新安县的“墟”中以深圳墟(今东门老街)最为繁华。

注目すべきは、この档案では「深セン墟」が計7回言及されたことである。「墟」(市場)は清政府によって設立された墩台から発展してきたものであり、新安県の「墟」のうち深セン墟(現在の東門步行街)が最も賑やかだった。


1911年,随着广九铁路开通,坐落于今东门老街一带的深圳墟火车站成为连接内陆与香港的交通枢纽。1931年,政府设立了深圳镇。1949年10月19日,深圳镇人民政府在东门(深圳墟)成立。1953年,因深圳镇交通便利、人口兴旺,宝安县政府由南头迁至深圳镇(今罗湖区桂园街道蔡屋围一带)。1979年3月5日,国务院批复同意将宝安县改为深圳市。从此以后,深圳市不只是一个新的名称、新的建制,更是被赋予了中国改革开放“排头兵”的重任。

1911年、広九(広州-九龍)鉄道の開通に伴い、現在の東門步行街に位置する深セン墟駅は中国内陸部と香港地区を結ぶ交通ターミナルとなった。1931年、政府は深セン鎮を設立した。1949年10月19日、深セン鎮人民政府が東門(深セン墟)に設立された。1953年、深セン鎮は交通が便利で、人口が多いことから、宝安県政府は南頭から深セン鎮(現在の羅湖区桂園街道蔡屋囲一帯)に移転された。1979年3月5日、国務院は宝安県を深セン市に変更することを承認した。それ以来、深セン市はただ新しい名前、新しい体制のみならず、中国の改革開放において「先頭に立つ兵士(パイオニア)」の重任が与えられたのである。


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来源:深圳市档案馆、i深圳

提供元:深セン市档案館、i深セン


编译:深圳政府在线、GDToday、Shenzhen Daily

編集・翻訳:深セン市政府ポータルサイト、GDToday、Shenzhen Daily