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“过境耕作”的历史由来

「越境耕作」の歴史的由来

発表時間 : 2022-12-22 07:40:00

细数往来深港的口岸通道, 人们熟知的大多是罗湖、皇岗、文锦渡、沙头角等一线口岸, 很少有人关注到另一种“特殊通道”--供边境居民过境耕作的“过境耕作口”,罗芳、长岭、皇岗、赤尾、新沙、沙嘴……你知道这些“过境耕作口”是为什么存在、又是如何形成的吗?从深圳市档案馆“先行之路--深圳经济特区档案文献展”展出的“深圳市过境耕作证”,我们可以找到一些线索。

深セン・香港を往来する口岸(出入国検査場)を一つ一つ数えてみると、よく知られているのは羅湖、皇崗、文錦渡、沙頭角などの一線(一級)の口岸で、ほかの「特殊通路」――境界線付近に住んでいた住民が境界線を越えて耕作に行くために設けられた「越境耕作口」に関心を寄せる人は少ないだろう。羅芳、長嶺、皇崗、赤尾、新沙、沙嘴などの「越境耕作口」はなぜ存在したのか?また、どのように形成されたか知っているだろうか?深セン市档案館の「先行の道--深セン経済特区档案文献展」に展示された「深セン市越境耕作証」から、いくつかの手がかりを見つけることができる。


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《过境耕作证》

「越境耕作証」


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《耕作口人员出入证》

「耕作口人員出入証」


鸦片战争后,英国强占香港岛,导致新安县(宝安县前身)一些边区农民的田地被圈在边界线以南的英方地界内,此后就有了生活在深港边界地区的居民过境耕作的现象。

アヘン戦争後、香港島がイギリスに占領されたことにより、新安県(宝安県の前身)の一部の辺境地区における農民の畑が境界線以南のイギリス地界に囲まれた。その故、深セン・香港の境界地区に住む住民は境界線を越えて耕作するようになった。


上世纪五十年代,为提高农民收入,同时发展与香港的小额贸易,宝安县委向广东省提出申请,农民可以凭“耕作证”过境耕作。由于历史原因,过境耕作曾被限制,1976年后重新恢复,那时候几乎每天都能在耕作口看到扛着农具排队过境的农民,人数有时候多达一两百人。

1950年代、農民の収入を高めると同時に、香港との小額貿易を発展させるため、宝安県委員会は広東省政府に、農民が「耕作証」によって境界線を越えて耕作が可能となることを提案した。歴史的な理由で越境耕作は制限されていたが、1976年に再開され、当時は耕作口でほとんど毎日農機具を担いで列を作って越境する農民の姿を見ることができ、時には100人、200人にも達した。


1980年,为方便边民过境作业,深港双方就深圳边民过境耕作问题进行会谈并达成共识:深圳农民过境耕种的人数,控制在2000人以内;持“耕作证”过境后,仅限于在港方划定的耕作范围内活动;港方如发现有过境耕作人员超越活动范围或受雇于非农务工种的,可将其拘留并遣返回深圳。

1980年、境界線付近の住民の越境耕作をより便利にするため、深セン・香港は深センにおける辺境住民の越境耕作問題について会談し、下記の内容の合意に達した。深セン農民の越境耕作の人数は、2000人以内に抑えること。「耕作証」によって境界線を通った後、作業は香港側が指定した耕作範囲に限定されること。香港側は、境界線を越えた耕作者が指定範囲を離れたり、または農業以外の職種に雇用されたりすることが発覚した場合、その耕作者を拘留して深センに送還することができる。


如今,只有住在深圳边境的原住地边民才有资格申领《深圳市过境耕作证》。随着生活水平的不断提高,过境耕作的现象已经越来越少了。

現在では、深セン側の辺境に元から住んでいる住民にのみ『深セン市越境耕作証』を申請する資格がある。生活水準の向上に伴い、越境耕作の現象はますます少なくなっている。


今日互动:“过境耕作口”虽然鲜为人知,但对于曾经经历过的人,也是一段难得的回忆。对于深港生活,您有哪些难忘的故事或者想说的话吗?欢迎您关注“i深圳”微信公众号,深小i将在留言中选取三位幸运儿送出小礼物。

今日の一言メモ:「越境耕作口」はあまり知られていないが、それを経験した人にとって、貴重な思い出かもしれない。深センや香港での生活について、忘れられないことや伝えたい物語があれば、語っていただけないだろうか。「i深セン」wechat公式アカウントをフォローし、コメントをいただいた方から3名のラッキーな方にプレゼントをお届け!

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来源:深圳市档案馆、i深圳

提供元:深セン市档案館、i深セン


编译:深圳政府在线、GDToday、Shenzhen Daily

編集・翻訳:深セン市政府ポータルサイト、GDToday、Shenzhen Daily